ボーイスカウトへの支援

クラブ設立当初から「米百俵精神」の先人たちが最も力を入れた活動のひとつが、次代を担う青少年の育成でした。戦後の荒廃期にありながら、人材育成の志を高く掲げ多くの人材排出の一助となる愚直なまでの活動は、長岡ロータリ60年の歴史に燦然と輝く足跡といえます。2007年この先人の足跡を踏襲し、再びスタートしました。長岡にボーイスカウトが再建されたのは昭和23年(1948)だった。ガールスカウトの再建は、その翌年である。ボーイスカウトとの関係は昭和26年からで、当時は隊員二十数名で月20円の会費を満足に収められない子供もあった。隊員の多くは制服を買う余裕さえ持たなかった。上着は大人のワイシャツを半袖にしてカーキ色に染め上げ、半ズボンはお父さんの長ズボンを切ってはき、ネッカチーフは薄手の風呂敷を首に巻いた。帽子は兵隊のゲートルをつなぎ合わせ、進駐軍(米軍)の野営帽よろしくかぶった。こんな有様を道行く人は「おや、向うからルンペンがやってくる」などと冷やかしたという。終戦後はご承知の通り、青少年だけでなく大人たちも精神的に荒れ乾いていて虚脱的な味気なさから、なかなか抜けきれない状態にあった。24年の8月、全国からボーイスカウトの代表数千人が集まって、銀座の大通りを数百本の日章旗を掲げて隊伍堂々行進した姿を見守った多くの市民は、戦後始めて見る日章旗に感動して涙したという。そういう時代だった。甦った長岡のボーイスカウトたちは、貧しくはあったが明るく元気に育った。・・・中略、長岡クラブはその助成に堀井、小林(友)、酒井(藤)会員らが先頭になって多くの支援を行ってきた。(長岡クラブ21年の回顧より抜粋)

再開されたスカウト支援

青少年の育成を目指して

  1. インターアクトクラブの設立と支援

    1965年6月長岡クラブによって国立長岡工業高等専門学校に設立され確かな発展を続け今日に至っています。

  2. ローターアクトクラブへの側面支援

    長岡東クラブによる設立に際し、準備段階から支援。

  3. ボーイスカウトへの支援

    クラブ設立当初から「米百俵精神」の先人たちが最も力を入れた活動のひとつが、次代を担う青少年の育成でした。戦後の荒廃期にありながら、…